夫の命日が近づくと、決まって体が重くなります。
眠れない夜、食欲のない朝。
理由もわからないまま、涙が出ることもある。
これを「命日反応」と呼ぶのだそうです。
故人の命日やゆかりのある日が近づくと、心と体が自然に反応してしまう——意識していなくても、体が先に覚えている。
悲しみを経験した多くの人に起こる、ごく自然なことだと知りました。
そう知ってから、抵抗するのをやめました。
不調と手をつなぐ、ということ

そういう日は、何もしなくていい。
一日中映画を観るでも、好きなものを食べるでも、ただ眠るでも。
不調と手をつなぐように、その時間をやり過ごす。
やがてそれは、ただつらいだけでなく、夫のことをゆっくり思い出す、静かな時間になっていきました。
菜の花と桜の共演へ

菜の花と桜が、同じ季節に咲く。
ほんの短い間だけの、贅沢な共演です。
ふわふわとした陽気に誘われて、車で一時間ほどのところへ出かけました。普段はなるべく開かないSNSも、この時期の花見情報だけは別です。
どうしても、というから

夫は、花に全く興味のない人でした。
カメラを向けるのはいつも子どもたちで、自分が写ることも、自撮りをすることも、ほとんどありませんでした。
病気が再発して、完治は難しいとわかった頃のことです。
わたしの好きな花を見に行こう、と夫が言い出しました。
悲しくなるかもしれないから、行きたくなかった。でも、どうしてもというから。顔に出さないようにしながら、助手席に乗りました。
気にもしなかった階段で

今年も、あの場所には家族連れや犬を連れた人が、賑やかな声とともにいました。
気にもしていなかった階段で、少し息が上がりました。
病気だった夫も、ここを歩いたんだな、と。足元を見ながら思いました。
あの笑顔で、見つけてくれる気がして

しばらくの間、あの場所に行けませんでした。
夫を見送ったあと、何もかも捨てて誰も知らない場所でひっそり生きていきたいと、何度も思いました。転居する人が多いと聞いたこともあります。気持ちは、よくわかります。
でも最近は、あの場所に立つと——夫が待っていてくれる気がするのです。
町中で待ち合わせをしたとき、こちらが恥ずかしくなるくらいの嬉しそうな笑顔で、わたしを見つけてくれたあの顔で。
あのころよりずいぶん古くなってしまったけれど、きっと見つけてくれるでしょう。
命日反応は、悲しみだけじゃない

命日反応は、悲しみを思い出させるだけのものではないのかもしれません。
その日が来るたびに、その人のことを深く思い出せる。
弱いのでも、怠けているのでもない。それだけ深く、誰かと関わることができたということなのだと、最近は思えるようになりました。
姿は見えなくなっても

夫と過ごした日々が、今のわたしを支えている。
姿は見えなくなっても、空気となって、口から肺へ、血のなかをめぐって、生きていたころよりも深いところで。
そう思えるようになってから、ひとりぼっちの不安が、少し薄れていきました。


コメント