実は、失っていない―配偶者を亡くして見えた“支えるものたち”

手からこぼれる砂 こころのケアと生き方

こぼれ落ちる時間の中に、確かに残るものがある

家族のかなめを失って

扇子

「配偶者を亡くすことは、“今”を失うことだ」と言われます。
確かに、経済的な不安や将来への心細さは否めません。

でも、それ以上に大きいのは、
日常という土台が静かに崩れ落ちるような感覚でした。

夫とは、縁あって一緒になり、子どもにも恵まれ、穏やかで楽しい生活を送っていました。

あの時、子どもは大学生。

周囲がサークルや飲み会で青春を謳歌していた頃、父親の死をきっかけにサークルを辞め、

「講義を聴きに行くだけで精いっぱい」と言ってアパートに籠もる日々が続きました。

小さな頃から明るく、父親が大好きだった子。
その喪失の深さに、言葉を失いました。

ひとりの自分に戻るために

女性

夫を亡くしてから、最初に決めたのは

「何かつまずいた時、“夫がいなくなったから”とは結びつけない」こと。

女性の一人暮らしでは、厄介だと思う場面が少なくありません。

例えば、大きな買い物をするとき、「どうせ買わないだろう」という目を向けられることもあります。

でも、それは夫がいないせいではなく、相手の問題です。

誠実な営業の方は、私が女性であろうと丁寧に対応してくださいます。

同級生で“営業の神”と呼ばれた人も笑って言います。
「商売ってさ、奥さんの方が財布の紐を握ってるんだよ」

今は、ネット上であらゆるものが買える時代。

社会はまだ男性優位な部分を残していても、相手を選べば、生活に大きな支障はありません。

夫が守ってくれていたことには感謝しつつ、
その頃の7〜8割で回せるなら、それでいい
そう決めました。

「いつもどおり」に生きるということ

やじろべえ

もうひとつ、自分と約束している言葉があります。

「いつもどおり」

調子が良い日も、悪い日も、「いつもどおり」に過ごす。
それが、私にとっての心のケアです。

朝5時半に起きて、お弁当と朝食を作り、簡単な掃除をして7時に家を出る。

帰りはお散歩を兼ねて買い物をし、18時に夕食の準備、お風呂に入る。

子どもから連絡があれば必ず出て、23時に就寝。

ただ、それを繰り返す。

すると、調子の悪い時には「いつもしていること」ができなくなるのですぐ分かります。

そんな日は、お風呂に入浴剤を入れたり、お散歩の時間を長くして、

小さく軌道修正をします。

まるで「やじろべえ」のように。
少し揺れながらも、大きくかたむく前に戻る。

いつもどおり」とは、たった6文字でありながら、続けるには強い自制心が必要です。

失ったもので構成される私たち

パズル

 

一時期、子どものことをとても心配しました。

けれど、大学の先生方は事情を理解し、授業を早めに終わらせてくれたり、
友人たちは、言葉をかけずにそっと支えてくれたりしました。

そのおかげで無事に卒業し、父と同じ研究者の道へ。

考え方や物の捉え方が驚くほど似ていて、DNAのなせる業でしょうか。

夫と他人の私には持てなかった“血のつながり”に、いつしか羨ましさよりも、嬉しさを感じるようになりました。

形はなくなっても、亡き人が残してくれた何かは確かにあります。

それは羅針盤のように、私や子どもの中で静かに方向を指し示してくれるのです。

終わりがあるからこそ見えるもの

抱きしめる

最近では、AIによって故人の声や思考を再現する技術もあります。けれど

わたしの手を、すっぽり包んでコートのポケットに入れてくれる、彼の手の大きさと質感。

長い腕で抱きしめられた時の、少し高い体温。

それは、AIでは再現できない“体温の記憶”です。

残すためではなく、「今を生きるため」にわたしが受け継ぐもの

終わりを覚悟すればこそ、次の世界が見えてくる。

きちんと終わらせるということは、次へとつながるための儀式でもあります。

失ったものによって、私たちは構成されている。

だからこそ、「実は、失っていない」

そう思います。


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